どんな芸術作品においても、誰にとっても、その価値は、言い張ることしか出来ず、しかもその言い張りによってしか人々に価値を感じてもらう方法がないことについて、我々は日々頭を悩ませている。
というのも、芸術家は身に付けた技術によって、人々が求めるものをこそ作ればよいというのが一般的な感覚、かつ経済の世界における常識であるのに対して、芸術や研究の世界においてはある個人の偏向の極みにおいてこそ真に新しい価値の土台を気付き上げる可能性を秘めているからである。
我々が日々用いたり消費するものの基底を成すあらゆる技は、いつかの誰かによって開発されたものであり、それが成立する以前にはそれに関連する全ての価値は存在していない。つまり、当の技の開発者は、事前に存在しないもの、想定し得ない価値を作り上げているのである。これは言わば偶然の産物でもある。ほとんどの研究の成果は、そもそも想定外であることが前提なのである。革新的な成果とは予め狙って構築することができないために、個人の偏向の極み、その頂にしか存在しない。
あらゆる真の芸術の価値はその点にある。つまり、個人的に煮詰めた技や思考は最終的にそれ自体が、多様な技術、文化、商品などが育つ土壌となるのであり、あらゆるもののプラットフォームとして機能し、研究対象にさえなる。このような真に革新的な成果を得るためには、最終的に出力されるものがそれの属する領域内において、既存の基底的価値のいずれにも依存していないことが求められる。簡単に言えば、誰の言うことも聞かないことが必要である。このような態度は一般的に社会においては不適合と見做されることが多いが、そのようなこだわりの強さの果てにしか成立しない価値がある可能性を考慮し、画商は仕事をすべきなのである。
画商とは、売れるものを売るだけの仕事であってはならない。最終的にその結果が誰にも認めてもらえないとしても、この人ならば芸術研究に関して信頼が置けると判断できる者をこそ芸術家として、売らねばならないのである。
結局のところ我々には、当の信じた価値を、言い張ることしか出来ず、それが最重要の仕事なのである。
※もちろん現代社会においては売れるものを想定し作ること、売れるものを売っていくこともまた重要な仕事のひとつである。