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《Cursed Cards》に参加したねぶた・ねぷた作家たちの現在地

《Cursed Cards》に参加したねぶた・ねぷた作家たちの現在地

伝統の外側へ手を伸ばすということ 現在日本全国5か所で開催中の展覧会「Cursed Cards」には、(西洋)美術の文脈ではあまり語られてこなかった背景を持つ作家たちが参加している。青森のねぶた・ねぷた文化圏で長く制作を続けてきた作家たちだ。 インタビューに応じてくれたのは、今回最大サイズの作品を制作し、さらに二名の作家との共作全体をディレクションした仙安さん、小型立体作品を手がけ、ねぶた研究の論文も発表している工藤友哉さん、そして天井から吊るされている短冊作品を制作したスミレさんの三名。 ねぶた制作の現実と、当たり前にある憧れ 仙安さんのねぶた制作歴は16年。アーティストとしての活動を開始したのは5年前になる。現在はねぶた・ねぷたの制作に加え、寺院の屏風や日本画系統の仕事などを幅広く引き受けている。仕事の8割ほどは青森周辺地域からの依頼だが、過去には茨城・つくばの大型商業施設で制作を行うなど、県外での活動実績もある。 「東京だと、バイトなどをしながらアーティスト活動を継続する人はよくいる。青森では、掛け持ちしながら“ねぶた作家”をやっていく人たちがいる。幼少期に絵が好きな人なら、一度はねぶたを作ってみたいと憧れる。」 工藤さんも、小さい頃からねぶたを見て育った一人だ。しかし、特に青森市の大型ねぶたにおいてその専門家「ねぶた師」になる道のりは極めて険しい。一人の師匠に複数の弟子がつき、最終的に継げるのは一人だけ。大型ねぶた一台の制作では、作家本人が食べていくのがやっとで、家族を養うには年間で2〜3台の受注が必要になるという。 その一方で、弘前や周辺地域では一台20〜30万円程度のケースも多い。また、五所川原の立ちねぶたは一転、市職員として雇用されるため生活は安定するが、その分制作の自由度は低くなるなど、基本的にはねぶたの制作内容もまたスポンサー(雇用主)の意向に沿って制作されることが大半であるという。いずれも東京のアート事情に通ずるところが多々ある。 学問としてのねぶた、制度としてのねぶた 工藤さんは、ねぶたに関する論文を学会で発表するなどの活動もしている。ねぶたが美術館に所蔵されることも、まったく無かったわけではないという。しかしそれらは多くの場合、現代美術作家の作品の「一部」として扱われ、ねぶたそのものが主体として評価されることはほとんどなかった。 また、ねぶた・ねぷたには、厳然たるフォーマットがある。『勇壮華麗な武者人形であれ。』それらは武者絵が基本であり、あの高名な版画家 棟方志功がねぶたを描いた時でさえ、「伝統的ではない」と批判を受けたという話が残されている。 そもそも「ねぶた」という言葉は、祭りそのものを指し、そこに出る作品もまた「ねぶた」と呼ばれるようになった。ここ10〜20年で「ねぶた的なもの」全般を指してねぶたと呼ぶケースも世間では増えた(京都芸術大学の瓜生山ねぶたのような)が、それらは本来の意味でのねぶたとは異なる、と専門家の目には映ることもある。「それはねぶたというより、ランタンに近い物なのではないか、という話になることもある」と工藤さんは言う。その一方で、ねぶた制作の技術を持つからこそ、その作家がランタン作家として依頼を受け、海外で大きく活躍したケースも存在する。作家としての境界線は、決して単純ではない。 権威と自由、そのあいだで 仙安さんは、長くねぶた・ねぷたを追いかけてきたが、次第にその世界の「権威性」に息苦しさを感じるようになったという。工藤さんも、師匠と衝突した過去を持つ。 今回の制作では、ねぶた文化圏外で生きてきたスミレさんの存在もまた特殊だ。伝統を知る者だけで作り続けると、どうしても視野が閉じていく。スミレさんは青森県外の出身で、ねぶたの伝統についても「知らなかった」と明るく笑う。だからこそ、その文化のどこが当たり前で、どこが特殊なのかを問う存在となり得る。仙安さんが彼女を制作に誘い続けているのは、技術の継承だけが伝統ではない、という実感があるからと見える。伝統を内側から守るだけでなく、外部の視点を意図的に混ぜ込むこと。その実践が、今回の共作の基調になっている。 あらゆる文化は、閉鎖的で権威主義的であるからこそ、その伝統が守られるという側面もある。地域に特有の取り組みは年を重ねて歴史を纏い、権威的な伝統・文化となっていく。ねぶたの辿った歴史もまた同様だ。しかし驚くべきことに、「ねぶた師」という専門の職人の呼称自体は、実はこの60年ほどの歴史だという。それ以前、ねぶたは「大衆芸術」であった。それがこの半世紀ほどの間に、地域の伝統文化と見なされるようになったのだ。 だとすれば、「ねぶたという制度」もまた、日本社会の西洋化の過程で生まれたものだったと言えるだろう。日本人にとって当たり前だった「絵」が、洋画の流入によって「日本画」として再編成された歴史と重なる。 制度からの離脱 そのように制度化されたねぶたが、新しい試みを阻んできたのも事実だ。従来のねぶたは、光を当てて初めて成立する構造になっている。光を前提とした切り方、見せ方。しかしその制約から離れない限り、アート作品として成立させるのは難しい、と仙安さんは考えている。 屋内に展示するとき、屋外に展示するとき、壁に貼ったとき――展示環境を自由に想定したとき、「灯りがついてなんぼ」という作りそのものが制約となる。 伝統を軽視するわけにはいかないが、ただ保守的であることが正しいとは決して言えない。ねぶた作家の、権威と自由の狭間での葛藤が伝わってくる。 Cursed Cardsという場で起きていること 「Cursed Cards」で彼らが試みているのは、伝統の否定ではない。むしろ、伝統の外側にもう一度立ち、どこまで手を伸ばせるのかを確かめる行為だ。スミレさんのように、ねぶた文化の外部から関わる存在が制作の内部にいることが、制作のひとつの答えでもある。伝統を「知っているか/知らないか」ではなく、「どう関わり続けるか」として捉え直す。それは、ねぶたという文化を固定された形式から、再び生きた表現へと引き戻そうとする試みなのだ。 ねぶたであることをやめないまま、ねぶたであることに縛られすぎない。その緊張感の中で生まれた作品群は、ねぶたを知る人にも、知らない人にも、異なる角度から問いを投げかけている。 伝統とは、守るものなのか、更新されるものなのか。その問いは、作品の前に立つ私たち自身にも返ってくる。 取材:MAMEPY、みつきおぼろ...

《Cursed Cards》に参加したねぶた・ねぷた作家たちの現在地

伝統の外側へ手を伸ばすということ 現在日本全国5か所で開催中の展覧会「Cursed Cards」には、(西洋)美術の文脈ではあまり語られてこなかった背景を持つ作家たちが参加している。青森のねぶた・ねぷた文化圏で長く制作を続けてきた作家たちだ。 インタビューに応じてくれたのは、今回最大サイズの作品を制作し、さらに二名の作家との共作全体をディレクションした仙安さん、小型立体作品を手がけ、ねぶた研究の論文も発表している工藤友哉さん、そして天井から吊るされている短冊作品を制作したスミレさんの三名。 ねぶた制作の現実と、当たり前にある憧れ 仙安さんのねぶた制作歴は16年。アーティストとしての活動を開始したのは5年前になる。現在はねぶた・ねぷたの制作に加え、寺院の屏風や日本画系統の仕事などを幅広く引き受けている。仕事の8割ほどは青森周辺地域からの依頼だが、過去には茨城・つくばの大型商業施設で制作を行うなど、県外での活動実績もある。 「東京だと、バイトなどをしながらアーティスト活動を継続する人はよくいる。青森では、掛け持ちしながら“ねぶた作家”をやっていく人たちがいる。幼少期に絵が好きな人なら、一度はねぶたを作ってみたいと憧れる。」 工藤さんも、小さい頃からねぶたを見て育った一人だ。しかし、特に青森市の大型ねぶたにおいてその専門家「ねぶた師」になる道のりは極めて険しい。一人の師匠に複数の弟子がつき、最終的に継げるのは一人だけ。大型ねぶた一台の制作では、作家本人が食べていくのがやっとで、家族を養うには年間で2〜3台の受注が必要になるという。 その一方で、弘前や周辺地域では一台20〜30万円程度のケースも多い。また、五所川原の立ちねぶたは一転、市職員として雇用されるため生活は安定するが、その分制作の自由度は低くなるなど、基本的にはねぶたの制作内容もまたスポンサー(雇用主)の意向に沿って制作されることが大半であるという。いずれも東京のアート事情に通ずるところが多々ある。 学問としてのねぶた、制度としてのねぶた 工藤さんは、ねぶたに関する論文を学会で発表するなどの活動もしている。ねぶたが美術館に所蔵されることも、まったく無かったわけではないという。しかしそれらは多くの場合、現代美術作家の作品の「一部」として扱われ、ねぶたそのものが主体として評価されることはほとんどなかった。 また、ねぶた・ねぷたには、厳然たるフォーマットがある。『勇壮華麗な武者人形であれ。』それらは武者絵が基本であり、あの高名な版画家 棟方志功がねぶたを描いた時でさえ、「伝統的ではない」と批判を受けたという話が残されている。 そもそも「ねぶた」という言葉は、祭りそのものを指し、そこに出る作品もまた「ねぶた」と呼ばれるようになった。ここ10〜20年で「ねぶた的なもの」全般を指してねぶたと呼ぶケースも世間では増えた(京都芸術大学の瓜生山ねぶたのような)が、それらは本来の意味でのねぶたとは異なる、と専門家の目には映ることもある。「それはねぶたというより、ランタンに近い物なのではないか、という話になることもある」と工藤さんは言う。その一方で、ねぶた制作の技術を持つからこそ、その作家がランタン作家として依頼を受け、海外で大きく活躍したケースも存在する。作家としての境界線は、決して単純ではない。 権威と自由、そのあいだで 仙安さんは、長くねぶた・ねぷたを追いかけてきたが、次第にその世界の「権威性」に息苦しさを感じるようになったという。工藤さんも、師匠と衝突した過去を持つ。 今回の制作では、ねぶた文化圏外で生きてきたスミレさんの存在もまた特殊だ。伝統を知る者だけで作り続けると、どうしても視野が閉じていく。スミレさんは青森県外の出身で、ねぶたの伝統についても「知らなかった」と明るく笑う。だからこそ、その文化のどこが当たり前で、どこが特殊なのかを問う存在となり得る。仙安さんが彼女を制作に誘い続けているのは、技術の継承だけが伝統ではない、という実感があるからと見える。伝統を内側から守るだけでなく、外部の視点を意図的に混ぜ込むこと。その実践が、今回の共作の基調になっている。 あらゆる文化は、閉鎖的で権威主義的であるからこそ、その伝統が守られるという側面もある。地域に特有の取り組みは年を重ねて歴史を纏い、権威的な伝統・文化となっていく。ねぶたの辿った歴史もまた同様だ。しかし驚くべきことに、「ねぶた師」という専門の職人の呼称自体は、実はこの60年ほどの歴史だという。それ以前、ねぶたは「大衆芸術」であった。それがこの半世紀ほどの間に、地域の伝統文化と見なされるようになったのだ。 だとすれば、「ねぶたという制度」もまた、日本社会の西洋化の過程で生まれたものだったと言えるだろう。日本人にとって当たり前だった「絵」が、洋画の流入によって「日本画」として再編成された歴史と重なる。 制度からの離脱 そのように制度化されたねぶたが、新しい試みを阻んできたのも事実だ。従来のねぶたは、光を当てて初めて成立する構造になっている。光を前提とした切り方、見せ方。しかしその制約から離れない限り、アート作品として成立させるのは難しい、と仙安さんは考えている。 屋内に展示するとき、屋外に展示するとき、壁に貼ったとき――展示環境を自由に想定したとき、「灯りがついてなんぼ」という作りそのものが制約となる。 伝統を軽視するわけにはいかないが、ただ保守的であることが正しいとは決して言えない。ねぶた作家の、権威と自由の狭間での葛藤が伝わってくる。 Cursed Cardsという場で起きていること 「Cursed Cards」で彼らが試みているのは、伝統の否定ではない。むしろ、伝統の外側にもう一度立ち、どこまで手を伸ばせるのかを確かめる行為だ。スミレさんのように、ねぶた文化の外部から関わる存在が制作の内部にいることが、制作のひとつの答えでもある。伝統を「知っているか/知らないか」ではなく、「どう関わり続けるか」として捉え直す。それは、ねぶたという文化を固定された形式から、再び生きた表現へと引き戻そうとする試みなのだ。 ねぶたであることをやめないまま、ねぶたであることに縛られすぎない。その緊張感の中で生まれた作品群は、ねぶたを知る人にも、知らない人にも、異なる角度から問いを投げかけている。 伝統とは、守るものなのか、更新されるものなのか。その問いは、作品の前に立つ私たち自身にも返ってくる。 取材:MAMEPY、みつきおぼろ...

《いつものしゃべり vol.1》を開催、次回開催に期待の声

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